福知山市ピアノ教室 講師紹介

幼少の頃、耳コピが得意

2歳半から保育園に通う。

妹と弟が年子で3歳4歳差なので、保育園の親子遠足も親の引率なしの私のみで、先生に連れられて平気で行っていた。 

週末は、1時間弱かけて、父の実家に車で帰っていた。

道中、童謡のカセットを聴いていたので、歌は大好きだった。

年中の時、父の実家に引っ越すことになり、保育園が変わる。

年長の時、視力が落ち全く見えなくなり、入院。

その後投薬治療で完治。

ひな祭りの曲を耳コピし、帰宅し親戚からもらったオルガンで弾いて遊んでいた。

少しずつ保育園から覚えて帰り、家で弾き、前奏から最後まで弾けるようになるのが、楽しくて夢中になっていたのを覚えている。

保育園の先生からピアノ習わせてあげたらと、母は言われていたが、生活に追われていて、忘れていたようである。 

妹、弟の面倒をよくみる、明るくてしっかりしたお姉ちゃんといわれていた。 

 

小学生〜ピアノ教室へ いじめも経験

小1、クラスメイト9人(クラス男子3人女子6人)の小規模校に通っていた。

小1の年明けから、やっとピアノ教室に通う。

初代オルガンピアノの本を使用し、先生も優しく練習も楽しくて、花丸をもらいたくて、どんどん教本が進む。

小2の時、練習も頑張っているし、鍵盤も足りなくなってきたので、ついにピアノを買ってもらう。 

低学年下校中2つ上の男子に虐められていた。

口外唇裂の軽い症状で産まれてきた私は、生後三か月の時に形成手術するも、鼻がゆがんでいたので、それを言われていた。しかし私は、帰宅しピアノを弾いたら、嫌なことなんて忘れていた。

下校中、平気に装っていたら、いつのまにか、嫌がらせもなくなった。

そんな嫌がらせも気にしないほどピアノに夢中でした。

 

小4年の時ピティナコンクールに出てみないかといわれ出ましたが、今思うとあの演奏でよく参加したものだとびっくりします。その後、本格的にピアノをしようか考え始めた。小5から○○楽器店に、月に2回京阪神からハイレベルの先生が来られて、ピアノとソルフェージュのレッスンを日曜日に通うことになった。 

ピアノは、先生のレッスン内容が難しく、難しい曲になり大苦戦。楽しさがなくなってきた。難曲を必死に弾きこなすのみの日々をおくる。今思うと、ただ弾いていただけの気持ちの入らない、心に響かない演奏をしていたと思う。

その教室に通っている同学年の子がいて、とても上手で、すっかり自信を失った。

さらに追い討ちをかけるように、ソルフェージュのレッスンは、音大受験の人(高校3年生)と一緒にしていたので、初めての私は全然ついていけなかった。

それでも、少しづつはできるようになった。

ちなみに小5年からは少女バレーボール部にも入っていた。同級生 の女子がみんなするから、入ったぐらいのことだったが、それなりに楽しかった。

小6の時、都会から、転入生がやってきて、ピアノも私と比べものにならないくらい上手で、上には上がいるんだなと・・・

なかなか自信が持てなかった。

しかし、インベンションやソナタを必死で練習していた。

 

病魔

中1、田舎の中学校で人数も少なく、文化部がなく、入りたくないソフトボール部 に入る。そんなこんなで、中1の夏休み、微熱が下がらず調子も悪く近くの掛かりつけ病院に行った。

左腰辺りにしこりがあるから、大きい病院に行くようにと言われ、即入院。

実は、小5の時から座っている時、左足が痛く、整形外科で診察を受けていたが、原因がわからず痛みに耐えていた。

以前受診した病院であったので信用出来ず、京大病院に転院した。

すぐに病名も出て、蜂巣状腫瘍(悪性)だった。

すでに、肺にも取り除けない細かい腫瘍があり、最悪の状況だった。

そのことは、22歳ぐらいになり病院の先生から教えてもらった。

家族は流石に私に言えなかったらしい。

私もなんとなく空気を読んで聞いちゃいけないな〜と思った。

7ヶ月入院。

 

秘密

親は私に病気のことは隠していた。

親になった今、両親はどんな気持ちであったのか、本当に感謝しかない。 

 

大手術

抗がん剤、放射線で腫瘍を小さくしてから24時間以上の手術が始まった。

まず、腫瘍を取り除き、第三腰椎を切除、セラミックと骨盤の骨で埋め、手術は成功。 

後遺症は神経1本筋肉2本を切ることになったが、リハビリのおかげで、生活にまったく支障はない。

術後、1ヶ月はベッドから起き上がれず、起き上がった時には頭痛が酷く、座ることができなかった。

 

音楽が癒し

そんな時、キーボードを購入してもらい、座れるようになった時に弾いてみた。

弾くのに夢中で、頭痛を忘れていた。

久しぶりの鍵盤は心地よかった。

嬉しくて、やっぱりピアノ好きだなと実感した。

これは、音楽療法ではないかと実感した。

キーボードを弾くことにより頭痛も治った。

 

音楽の授業が居場所

退院し、連休明けくらいから学校に行きかけた。

友達も出来ず、帰ってからのピアノが私の心の支えだった。

中学校での音楽の先生の授業は、沢山の歌唱があり、そこで気分転換もでき、あと、伴奏(マイバラード、大地讃頌他)もさせてもらい、唯一の中学校での私の居場所だった。

親友もいない、どちらかというとおとなしい暗い感じの生徒だった。

中3のころから趣味として初めにお世話になった先生のところへまたピアノを習いに行った。 

 

高校

ますます私自身心を閉ざすようになった。

人前、外ではおとなしくしていた。 

その頃、ピアノ先生が音大に進まなくてもヤマハのグレード試験を受けてみたらどうかと提案。

全国どこにお嫁に行こうが、グレード5級以上あるとよいといわれ、私も資格の一環として勉強してみようかと思い、大阪の男性の先生の自宅まで月2回、1回2時間レッスンを受けに行った。

その先生のレッスンはその後、結婚前まで習い続けた。

私にとっては、すごくわかりやすく、目から鱗ばかりのレッスンだった。

スケールの手の運びから、手の形指の形から、本当に時間をかけて丁寧におしえてもらった。 

アナリーゼの仕方、作曲法、聴音、伴奏付けetc、はじめてピアノを教える仕事をしてみたいと思った。

 

ピアノ科受験

そこから、かなり遅いが、神戸山手女子短期大学ピアノ科に進むことになった。

無事合格し、先生のところには、月2回変わらず通った。 

作曲の中田喜直先生の授業を受けられたことと、声楽科の友 達の伴奏をして、「君の伴奏いいね」と褒められたことは、良い思い出。

二年間の短い学生生活は、充実していた。親友3人ができたことも大きな財産。

教職も取っていたので忙しかったし、ヤマハ演奏グレード5級、指導グレード4級も取り、アルバイトも経験してみた。 

 

社会人〜生徒がどんどん増える

ヤマノのピアノ講師の資格試験に受かり、地元のヤマハ特約店 のピアノ講師となる。

しかし、最初の1年間は生徒なし。

自分でチラシを作り、近所に配っていた。そして2人近所の小学生さんが習いに来てくれ、次第に増えていき、そのころの生徒さまも今は二十歳。大学生になった今も、発表会には帰ってき、手伝ってくれたり一緒に演奏をしてくれる、頼りになる存在です。長い期間、いつまでも、先生、せんせいと慕ってくれるのは本当に嬉しいです。

 

 

楽器店入り2年目くらいにはちょうど旦那さまの転勤で辞められることになった先生の生徒さんが回ってきた。

有難いことに、個人で出張レッスンされていた生徒さんも譲って頂く。 

楽器店では、年に一回発表会があったのと、個人で発表会を開催していたので、その時には毎年、講師演奏を披露していた。人前で弾くのは苦手だったが、私自信レッスンに通っていたので、レッスンで受けた曲を披露出来る場があるのは幸せなことだと思い、弾いていました。だから、緊張する生徒さまの気持ちもよくわかりました。

出張レッスン希望の生徒さまも増えてきました。

 

 新しい仕事

2003年25歳のお盆明け。           

中学校の非常勤講師をしてみないかとお誘いがあった。

週4,5時間程度引き受けた。

ちょうど、同じ時期に、調律師さん からも生徒さんを紹介された。

その生徒さんは、年長の9月から習われ、高校3年生まで続け、高1の時グランドピアノを購入された。

アップライトピアノは、某建築会社のミュージアムに運び、先生がそこで教えてこのピアノを今後も使って欲しいと頼まれた。

ちょうど、結婚した2010年のクリスマスに、そこでその生徒さんのソロの演奏と連弾の発表の場を作ってもらい、新しい住宅地だったので、ピアノを習いたいと思われる方が聴きに来られた。

今もそこで月曜日教えている。

その生徒さんは、今は高校の化学の先生をし、吹奏楽の顧問として、音楽に携わっていて嬉しい 。 

帰省された時はいつもお土産を持って顔を見せに来てくれる、とっても素敵なお姉さんです。

 

新米先生

初めて勤務した中学校は各学年1クラスずつの小規模校。

ちょうど、校長先生が音楽科の先生ということで、何もわからない私に、合唱指導をして見せて頂いたり、私が合唱の指揮が出来るようになったのも、その校長先生がいらっしゃったからだと思う。

それからは、夏休みを使って、合唱講習会や、和楽器→筝を習いにいったり必死だった。

過去なNHK合唱コンクールの近畿大会で何度か金賞を出していた凄い先生も同じ市の音楽部長だった。

沢山の歌唱指導を受けた。

 

音楽は何よりも大切

当時、中学の音楽の授業を減らす、教科にしない噂が流れていた。

合唱は、本当にクラスを一体化させるし、何より発散ができる場。

伴奏者も必死にピアノを練習して、上達するし、いいことしかない。今は脳科学で、音楽は良いと証明されている。

2006年校舎が新しくなり竣工式を行うことになり、生徒が歌詞を作り、私が 混声三部合唱の曲を作る。

大変だったが、作曲法も習っていたので、手直しやアドバイスをもらいながら完成。

とても記念になる素敵な曲♪「明日に夢見て」が仕上がり、 竣工式で披露できた。

良き思い出です。

その頃は学校での音楽講師としてもだいぶ慣れてきて楽しさも感じていた。

私自身のピアノレッスンも、結婚する までは通っていたので、自分のスキルアップと、生徒さんが弾くレベルの曲を改めて習った。

いろいろな講座にも行き、新しい情報を生徒に伝え、楽しくピアノのレッスンが出来るように勉強し、中学生高校生の生徒さんが効率よく家での練習が出来るように、練習の仕方は細かく伝えていた。

高2、高3まで続けた生徒さんは、部 活・塾・ピアノ・と三拍子頑張っていた。

みんな、賢かった。

そして、今も、何らかの形で音楽に携わっていて、私も嬉しいし、親御さんからも喜んでもらっている。 

2008年31歳、隣の市の中学校の非常勤もし、荒れていた学校だったので大変だったが、荒れているクラスを合唱でまとめあげた時は、音楽の力って凄いな、素晴らしい仕事と思った。

大規模校だったので、先生たちとの結束感もあり、学び多き年だった。

 

病魔に勝つ

2校の非常勤講師とピアノ講師

忙しく何とか 切り替えながら頑張っていた。

その年度の2月に目 がおかしく(右目だけ歪んで見える)ことになり、悪性新生血管と診断された。

びっくりした。

ストレスからそのようになったのかと思う。

でも、新薬の注射で治った。

 

音楽三昧

大規模校は1年間のみ働き、小希望校の1校、ピ アノ講師、5年ほど前から結婚式での聖歌隊のアルバイト、トラヴェルソとガンバとチェンバロ(私)で演奏活動もさせてもらい、音楽三昧の生活をしていた。

ハートフルブレスという、少人数合唱の伴奏も21歳の時からしていた。

2017年に初のクリスマスコンサート、2018年夏のコンサートをした。

家族みんなが楽しめる曲や内容で、ファンが増えてきた。

 

結婚、出産

2010年33歳になる年の3月結婚することになった。 

2011年東日本大震災を職員室のテレビで観ていたのを覚えている。

3月に非常勤講師の仕事を辞め、3月末の個人教室の発表会、

4月上旬に楽器店の発表会を最後に楽器店を辞める。

4月25日、予定日より1ヶ月以上早い、出産、2018グラムの男児誕生。

2か月目、実家の生徒さんからレッスン再開。

9月から新居にて教室開講。

生徒さんも口コミで増えてきて、ホームページを立ち上げてからは有難いことに、お問合わせが途切れず、

こばやしピアノ教室を選んできていただき嬉しい。

 

子育て 

子どもと一緒に、Y音楽教室1歳から行き、私も楽しく通い、ノウハウを盗み、レッスンに活かす。 

今現在も毎晩1冊は読み聞かせをし、3歳までは一か月間同じ本を繰り返し読んだ。

毎朝食時は英語、九九、地理、童謡のどれかを聴かしている。

ふたりとも、3歳になった頃には平仮名、カタカナが読めたので、読み聞かせと、音源を聴かせるのはよいと感じている。 

息子は、幼児科で辞めるも私の発表会には出演。

娘は只今幼児科2年目、息子よりよくピアノを弾いているが、耳コピなので、読譜を一緒にするが、すぐに甘えが出て、親子喧嘩になることもある。

小1からはピアノレッスンに通い、一からピアノの楽しさと、そして難しさを知ることになるが、泣いたり笑ったりの繰り返しで、ステップアップしていっている。毎日の練習の大切さと練習の中身の大事さも、徐々にわかってき、コンクールに挑戦し負けずに頑張って欲しいと願う。ピアノを習うこと弾くことは、いいことばかりなので、諦めずに進んで財産にして欲しい。

親としては、絶対ブレてはいけないと思っていることは、何があろうと、何が理由であろうと毎日ピアノは弾くようにすることが務めだと思っている。

 

息子は歌が大好きで、音程も正確ですぐ覚え気持ちよく歌い誉められている。

恥ずかしがらずに、これからも歌い続けて欲しい。

ピアノも嫌いではないようで、毎朝、学校に行く前に覚えている曲弾き、育脳ピアノの教科書で学んだことが集約してある、Rikoピアノチャンネルという動画を見てから、進んでピアノに向かうようになった。

親としては、とても嬉しいことだ。

発表会に向けて新曲を頑張って練習していって欲しい。

 

40代~

子どもが小学校幼稚園と行き、少し手が離れる。

幼稚園で、読み聞かせサークルに入り、その年度の最後はミュージカル的なのを考え披露。

私は、BGMピアノで演奏。

効果音を考えたり、合奏譜を作ったりして、音楽を活かせている。

幼稚園生活最後の年はコロナで出来そうになく、残念に思う。 

 

教材研究

バスティンは無理なく楽典から演奏そしてコードまで学べる教材だと思い20年以上使用しているが、ピアノアドベンチャーの楽譜を知り、すぐに購入した。

そして、我が子にさせたところ目を輝かせながら、どんどん進めていけ、とても楽しそうにして弾いたり歌ったりしていたし、作曲家についても導入から学べ、音楽で必要なことは網羅してある。

世界的に人気になっているのがわかる教材だ。

そして一通り実験して今年から生徒さんに使用している。

今は毎月3回のピアノアドベンチャーの研究会に参加し勉強している。

生徒さまにも人気の教材です。

 

ショックな出来事

2014年6月実の妹が亡くなる。

二人目がなかなか授からなかったが、妹の病気が発覚したと同時ぐらいに授かった。

何とも言えない気持ちだった。

好きなことを努力して、悔いの残らない生き方をしていた妹。

良いことは必ず行動し、人の悪口は言わない妹だった。

ショックだった。6月はピアノのレッスンを休ませてもらい、7月からまた再開した。 

当時3歳の息子の育児で忙しいのと、ピアノレッスンがあったから、、沈まずに前を向けたと思う。

妹の分まで、好きなことをし悔いの残らない人生を送ろうと常に頭にある。

 、

第2子出産

その年の11月に娘誕生。

輸血をするほどの出変だった。

家族はとても心配していたようだ。 

 でも、娘は元気いっぱいで私も徐々に回復していく。

 

現在

妹が亡くなり7年、ふと妹と話したいなと思う時がある。

ピアノのレッスンがあるから、寂しさを紛らわすことができ、私は前を向いて生きてきた。

 

私にとってピアノの先生という仕事は本当に天職だと思う。

 

一生ピアノの先生をしたい。

 

私の人生、びっくりするような病気ばかりになり、しかし、運が良く生きている。

苦しいことも、悲しさも、人一倍経験している。

 

予想もしなかった、新型コロナウイルス。

絶対、私は負けない。

こういう時、時代だからこそ、ピアノのレッスンで、音楽の力で、

生きる力を一人でも多くつけて欲しい。

今こうしてピアノの先生という素晴らしい仕事をさせてもらっている。

ピアノを教えるだけでなく、ひとり一人に寄り添い密に関わることのできる仕事。

生徒さまは、とても大切な我が子のような存在ですら感じる。

生徒さまと出会えたのは奇跡であるが、すべて人と人の繋がりで今の私があり成長してきたと思う。

大好きなピアノを弾くことで私自身が救われた。

生きにくい時代そしてコロナ禍となり、ますます悩み多き人、自死する人も増えたが、

もし、私のようにピアノが心の支え居場所であったなら、思いとどまれたかもしれない。

 

人生楽しいことばかりではないが、山あり谷ありをピアノと共に生き抜いて欲しい。

 

生徒さまと過ごせる時を、有意義なものとし、音楽面、人生面からもサポーしていきたい。

長い期間、通ってくださります。卒業されても、先生と慕ってくれます。

今までと変わらずひとり一人に寄り添いじっくりと楽しくレッスンしていきたいと思います。

ピアノ大好きさんに育てるのが私の目標です。

 

 

メディア

保科陽子先生の自己肯定感アップセミナー「ILOVE自分メソッド」を受講中、千葉テレビ、仕事のコンパスから取材があり、インタビューされました。

私のYouTubeチャンネル→こばやしピアノ教室をご覧ください。

こばやしピアノ教室は、自己肯定感を高めるピアノ教室です。